にほんごのれんしゅう

日本語で日記を書きます。

なぜ日本語を練習するのか

僕は日本語が書けない。書くのが苦手だ。というのも複数の文章を連結するのに頭を使ってしまう。

幼稚園くらいのちっちゃい頃から平仮名は読めた。英語も読めたし話せた。

それだというのに小学生の頃の作文では1時限全部使っても原稿用紙の1/4位しか書けないで、周りと自分を比べて悔しい思いをしていたのを思い出す。

読書感想文も苦手(というか嫌い)だった。

毎年夏休みになると出題されるこの宿題さえ無ければ僕の夏は素敵に終わるのにと思って小学生のころは少し泣いたりもした。中学では毎年全く同じ文章のものを提出していたから、これは怒られた。

「お前は本を読まないから書けないんだ。」

などと言われ怒られたこともあったけど、僕の読書量は結構多い方だし、読書は好きだった。教員はそれを知らない。

それでも書けなかった。書けないことの理由を考えてみたこともあった。導き出された答えとしては

「書く必要性が分からない(又は書く意味がない)から書かないんだ」

ということ。

何日も使って読書感想文を書くくらいならその時間で僕は本を読みたかった。宿題として提出して評価を受けることに僕は意味を感じなかった。そもそも本を読んだことに対して感想を抱くなんて事はなくて、ただその文章を読んで内容を理解し覚えることしかやってこなかった。登場人物の話しの意図や、狂言回しを僕は考えないでいた。だから書けなかった。

今でも大学の講義の中で感想文を書くことは時々ある。その度に感想だけ書けずにいる。実験の考察や今後の展望を書くのは簡単なのに、感想となると僕のシャーペンを握る手は止まり、キーボードの打鍵音も止まる。頭をフルスロットルで回す。提出期限が近づき僕はそのまま出す。

いつまでもこのままでいられないのは分かるけど、書き方もわからない。書ける人に聞いてみても、普通に思ったことを書けばいいんだと言われる。義務教育を受けなかったのか?と言われて笑われたこともあった。僕に僕が納得する答えを教えてくれた人はまだいない。このまま納得することもなく終わるのかもしれない。

 

英語は語順が決まっていて、配列を正確にすればよかったけど、日本語はそうもいかない。あまりにも抽象的で、順序を滅茶苦茶においても読む分には理解できる。僕はそれに甘えてしまう。

日本語は難しい。書くにしても読むにしても話すにしても僕には難解で常に考えされられながら過ごしている。周りを見ると構成図なんかを書かないでも脊髄反射のような速さで書き上げている人たちがいて驚く。彼らは僕のあまりの遅さに驚く。だんだん見慣れていくらしいけれど。呆れることもあるらしいけれど。

欠点を個性と呼ぶこともできるけど、僕はこれを欠点だと思って重く受け止めている。いつか常人の速さで感想を書きたいからこのブログは「にほんごのれんしゅう」としている。Twitterで済むような短文*1だけだったり、今回くらいの文量だったりと日々の練習量は不安定だけど、不安定なりも書く。いつかこれを読んで

「僕はなんて駄文を書いているんだ…。」

などと思いながら黒歴史として見る日が来てくれると嬉しい。

僕の練習におつきあいください。

以上ポエムでした。

*1:時にはツイートを張り付けて終わりにすることも